参加賞
Tシャツ
ゴール地点に入る事が出来ませんでした。
ゼッケン番号による抽選で二人合わせて4000円分の商品券を頂きました。
商品券で買った萩焼のフリーカップ
ホテルで朝食、チェックアウト後駐車場まで移動。市役所の駐車場から会場までシャトルバスで約15分。スタート時間まで約2時間ありハーフマラソンのランキング対象の大会でもあるので久しぶりに少しだけアップもしました。10時スタート。目標タイム2時間のブロックの少し前に並びましたが、人数も多く、周りのペースもゆっくり目で道幅も狭いので特に始めのうちは走りにくく感じました。日本海の海沿いを波の音を聞きながら、萩城下町では昨日の観光を思い出しながら萩城跡では観光気分でいつもより景色を楽しみながら走りました。目標はキロ6分切り。2時間5分位でゴールしたいと思いながら・・・。結果 2時間4分11秒で何とか目標達成ました。
日本屈指の鍾乳洞で国の特別天然記念物に指定されています。大正15年昭和天皇が皇太子の御時本洞を御探勝になりこの名前を賜ったそうです。洞内の観光コースは約1Km、正面入り口から黒谷入り口までの高低差は約40mほどあります。温度は四季を通じて17℃と一定しています。
洞窟正面入り口
百枚皿
傘づくし
空滝
巌窟王
五月雨御殿
青天井
天井の高さ30㎡、幅50㎡近くあり大変大きな空間で入り口からの太陽光が水面に反射し水の青さが天井に写し出されて青白く見えることから青天井と呼んでいます。
広庭
大黒柱
黄金柱
マリア観音
三億年のタイムトンネル
日本最大級のカルスト台地でおよそ3億5千万年前に南方の海でサンゴ礁として誕生しそれから長い月日を経て形成されました
松下村塾(世界遺産)
28歳の松陰が身分や階級にとらわれず1年余りの間に久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など明治維新の原動力となる逸材を育てました。
松陰神社
芳田松陰を祭神とする神社
孝行竹
横走地下茎が発達せず横にはびこらず親竹の周りにのみ竹の子が育つ。親を守る竹という意味で孝行竹といいます。松陰は親孝行で竹を愛したことから植えられたそうです。」
吉田松陰幽囚の旧宅(世界遺産)
下田での海外渡航に失敗した1854年野山獄に入れられ翌年、この実家である杉家に帰され謹慎生活を命じられました。
おみくじの傘が可愛い
吉田松陰は実家杉家宅地内にあった小屋を改造して八畳の塾舎とし更に翌年十畳半を増築し、これが現在の松下村塾でここで松陰が教育した期間は1年、幽囚室時代を通算しても2年半。この短い期間に明治維新の原動力となる塾生を多く輩出したことの凄さをあらためて感じました。
世界遺産「明治日本の産業革命遺産」は19世紀後半から20世紀初頭にかけ西洋の技術が日本に移転され急速な産業化を成し遂げたことを証言する産業遺産群です。岩手県から鹿児島県まで8県11市に広がる23資産で構成されています。萩の構成資産は産業技術導入の最初期の遺産で「萩反射炉」「恵美須ヶ鼻造船所跡」「大板山たたら製鉄遺跡」「萩城下町」「松下村塾」の五つで、萩反射炉は萩藩が海防強化の一環として鉄製大砲を鋳造するために1856年に試作的に築造した金属溶解炉です。
萩藩最初の様式木造帆走軍艦「丙辰丸」、2隻目の「庚申丸」が造られました。
1604年、毛利輝元の萩入国に従い山口から萩に移り、城下の町造りに尽力して呉服町に屋敷を拝領しました。阿古ヶ浜に藩士や足軽衆のための惣固屋を建てて住まわせたので阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになりました。其の後、代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めてきました。屋敷はしばしば御上使の本陣を命じられ藩の御用宅に借り上げられていました。全国でも最古に属する町屋として重要文化財の指定をうけています。
間口がとても広い
有栖川博仁親王が宿泊した際に使用の萩焼きの食器
篭置石
畳敷きの御用場
伊藤博文からの柱時計
釜場
醤油,みそ等の製造に使っていたが御城下に火事が発生した時には炊き出しにも使っていました。
屋敷が広いだけに井戸がいくつもありました。
円山応挙の掛け軸
縁板覆い
町人は縁に欅材を使用することを禁じられていたのでこれを隠すため杉の半割丸太で覆いを作ったと伝えられています。
上座に座って。
当時としては珍しい電話
金倉
頑丈な扉で財産が守られています。
藩校明倫館の正門として建てられ「明倫館」と書かれた扁額が掲げられています。本館は国登録有形文化財で1Fは観光インホメーションセンターやカフェ・レストラン・お土産ショップになっているので萩焼のフリーカップを求めました。
神社高台に立つ大鳥居の上部、高さ5mの位置に賽銭箱が設置されて」おり見事投げ入れられる事ができれば願いが叶うといわれています。3回目にやっと入りました。
勝運いなりと言う事で。
123基の赤い鳥居が綺麗です。
龍宮の潮吹
この一帯は玄武岩が露出して変化に富んだ地形を見せておりこの潮吹きは水面下の洞窟と連なった竪穴から海水を最大
30mも吹き上げます。
離島に架かる橋のうち無料で渡れる一般道路としては日本屈指の長さ1780mあります。
エレベーターに乗り地下へ55m降り下関側から780m歩いて門司へ。門司へ行ってエレベーターで60m上昇し地上にでました。全長1068㎡、海面から高さ61mのダイナミックな姿を見上げてきました。
みもすそ川公園
公園前に広がる海は関門海峡の一番狭まった所で「早鞆の瀬戸」と言われ潮の流れが速く、潮流の変化の激しい海の難所。幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡もあります。
源平壇ノ浦の合戦に敗れ、わずか8歳で関門海峡に入水された平清盛の孫である安徳天皇を祀っています。壇ノ浦を臨む水天門は鮮やかな龍宮造りで国の登録有形文化財。「海の中にも都はある」という二位の尼の願いを映したもの。境内には小泉八雲の怪談で有名な「耳なし芳一」の芳一堂もあります。
貞観元年(859)の創建と言われる古社で「関の氏神」として親しまれています。世界一のふくの銅像、亀山砲台跡などあります。すぐそばに「床屋発祥の地」という碑もありました。
ナンのフグバーガー(ナンダン)を食べました。
室町時代、西国一の栄華を誇った大内氏。26代盛見が兄・義弘の菩提を弔うため1442年に建立。屋根は檜皮葺で塔の胴は細くすっきりしています。現存する五重塔のうち10番目に古く、その美しさは日本三名塔の一つに数えられています。他の二基は法隆寺と醍醐寺の五重塔。
瑠璃光寺五重塔
知足の手水鉢
手水鉢の四方の字と真中の口を結んで、吾唯足知となり、現実に感謝し、不平不満を言わずより前進を誓う言葉です。この言葉はお釈迦様が涅槃に入られる前、最後の説法佛遺教経の中で言われた言葉で禅宗の寺によく使われています。
本堂
身代わり地蔵
300余年の昔より全ての悪い因縁、病気、縁談、不幸等に見切りを付けたいと願う人々の為に身代わりになって下さる地蔵様。身体を二か所横に切ってお救いくださるので身きり地蔵といわれています。
慈母観音
幼き子供を失った両親が世の子供たちが観音さまの胸に抱かれて永遠に育っていく事を念願しています。
うぐいす張りの石畳
この石畳の上で拍手や足踏みをするとうぐいすの鳴き声のような不思議な音がします。
瑠璃光寺
1471年、陶弘房の菩提を弔うため妻が仁保に建立した安養寺を移建し瑠璃光寺と改名。本尊は薬師如来。
水掛け地蔵
心願成就(がん、ぼけ)封じ
佛足石
お釈迦様の偉大なる徳を慕い石の上に立って我々を導いて下さった足跡を伏し拝み、そこに足形を石に刻んだのが佛足跡です。この佛足跡は我が国で一番古い奈良の薬師寺の佛足跡を模したものです。
後生車
生前の罪過を懺悔し世の為、人の為、善行を約束し「後生ですから”極楽浄土”の道へお導き下さい」と「南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏」と唱えながら後生車を回し閻魔大王にお願いすると罪過が浄化されると言われています。
不思議な木
樹齢150年位の百日紅の木に樹齢70年位の松の木が生えています。
香山墓地
毛利家墓所
山口の迎賓館として明治10年から120年余りかけて広く親しまれた料亭菜香亭を移築復元した歴史遺産。
ゆがみガラスと庭園
庭は大正時代の池泉廻遊式庭園を移築。
快作楽 三条実美
(かいをたのしみとなす)
何事も気持ち次第で喜びとなるという意。
清如水平如衡
木戸孝允
(きよきことみずのごとく たいらかなることはかりのごとし)
清廉で公平という意。
寂然不動
安倍晋三
(じゃくぜんふどう)
心は静かに穏やかだけど何事にも動ぜず信念は曲げないという意。
扁額
百畳の大広間など館内には総理大臣9人を含む29枚の書が掲げられています。
ずれも料亭を利用された際、書いて貰ったものです。
大豆の御汁で磨かれた黒光りの廊下
菜香亭
借用齋幸之語音而与亭名
井上薫 料亭の名を命名した書(料亭主人 齋藤幸兵衛の)
齋・幸の語音を借用して亭の名に与えた
一家天地自春風
伊藤博文
(いっかのてんち おのずからしゅんぷう)皆が一つになったら自ずと春風が吹くという意。
江山豁如
山県有朋
(こうざんかつじょ)
山野が開けて眺めがよいという意。
雪舟よりより良い庭を作られては困る。恥をかくような下手な庭を作ってもらいたい。と重森に依頼して作った庭。
庭園は本堂の北面にあり日本庭園の代表作。庭園は約30アール(約900坪)の広さで東西北の三方が山林、南が開けた土地の中央に池泉を穿つ池泉廻遊式庭園。廻遊することにより変化に富んだ景観を鑑賞できます。
31代大内義隆の滅亡後、毛利隆元が大内館跡に義隆の菩提寺として建立。周辺には池泉庭園、西門、枯山水庭園があります。
せん列建物
地面にせんを埋め込んでいます。せんとは焼成した煉瓦のことで中世の遺跡で検出されるせん列建物の多くは蔵であることから大内氏館につくられた蔵の一つと考えられています。
池泉
石組井戸
石を組んで作った井戸で深さ約4m、池泉庭園と同時期に造られ、井戸からは外面に金箔をはった土師器皿が三枚出土しました。
石組かまど
U字形に石を組んだ燃焼部が二つあり周辺から調理具なども見つかっています。
スペイン出身の宣教師フランシスコ・ザビエルが大内義隆の許可を得て山口布教を行った1551年の来訪400年を記念して建てられた旧聖堂が1991年に焼失。1998年に現聖堂が再建されました。