コロナウイルスの影響で福山マラソンは中止。そこで勝手福山マラソンを実施。5時起床。ホテルの朝食をとってスタート地点の竹ヶ淵運動公園へ。芦田川の河川敷が主なコースになっているので運動公園から芦田川沿いを一周だけ走ることに。(本来は2周)私達と同じような事を考えている人が他のも結構沢山いて10人以上の人と会いました。河川敷の道は整備舗装されていて走りやすかった。
瀬戸内の真っ黒キーマカレー(瀬戸内海の海苔がたっぷり)・うずめ飯・尾道の平飼い鶏の卵かけご飯
江戸時代のはじめ頃、築城の名手 藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に築いた名城。軟弱な地盤にも関わらず20万石の大名にふさわしい城郭を築き上げた。特徴は広大な水堀と高い石垣。全国的にも珍しい海水を引き入れた海岸平城で日本三代水城の一つに数えられています。堀は潮の干潮で水位が変わり海の魚の泳ぐ姿を見る事ができます。現在の天守は昭和55年に市制60周年を記念して再建されました。
御金櫓は郷土美術館 山里櫓は古美術館 鉄御門・武具櫓は木造の復元建物として内部公開しています。
鉄御門(くろがねごもん)
中央の大きな石が勘兵衛石 所々にある白いいしは大理石で城の石垣として用いることは殆ど無く珍しいものです。また近づいてみるとイシマテ貝によって開けられた穴が沢山確認できます。
石落
床に開けられた細長い蓋付き穴の事でここから石を落としたり鉄砲を撃ったりして下にいる敵兵を攻撃しまdす。
犬走
犬が通れるほどの細長い平地の事。今治城では石垣と水堀の間に3~5メートルの犬走が設けられています。これは海に近く地盤が軟弱な砂地の上に高い石垣を築くための地盤補強の工夫。
藤堂高虎の像と
格子窓
敵兵の侵入や矢弾を防ぐために太い格子をつけた窓の事。敵兵の頭が入らずかつ内側から鉄砲を撃ったり矢を射ることが出来る幅で作られています。
水堀に海の水を取り入れています。
水野勝成が備後10万石の領主となり築城。明治6年廃城となり天守閣、伏見櫓、筋金御門、御湯殿を除いて殆ど取り壊され昭和20年の戦災で天守閣と御湯殿を焼失。昭和41年 市制50周年記念事業で天守閣、御湯殿、月見櫓が復元されました。
鐘櫓
始めは鐘をつり太鼓をかけ時の鐘と半時の太鼓を打っていた。
月見櫓
京都伏見城内にあったものを移建。藩主等の到着を見極める役割があった。
天守閣最上階
鏡櫓
文書、記録類を収集整理する場として活用されている。
伏見櫓
三重の隅櫓。本瓦。伏見城松の丸にあったものを将軍秀忠が移建させたもの。
湯殿
京都伏見城より移築。建築の一部は石垣上に張り出し、内部は上の間、次の間、風呂の間にわかれていた。現在は貸会場として利用されています。
沼隈半島の先端にあり日本で最初の国立公園の一つとして指定された瀬戸内海国立公園を代表する景勝地。瀬戸内海のほぼ中央に位置しこのあたりで潮の流れが変わることから潮待ち、風待ちの港として栄え歴史的事件や様々な伝説が残っています。
鞆のシンボル常夜燈
太田家住宅
力石
江戸時代、船積荷物の陸揚げ、積み込みに従事する仲仕達が祭礼の場などでこの力石を持ち上げて力と技を競ったらしい。花崗岩製で重さ140~200kgあります。
いろは丸展示館
展示館の中は龍馬の一生がパネルで紹介。所々にクイズもあります。また、紀州藩明光丸に衝突され沈没した様子や二階には龍馬と海援隊が宿泊した枡谷清右ヱ門宅の天井裏の隠れ部屋が再現されています。
沼隈半島の南端、阿伏兎岬の突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ昔から海上交通の信仰を集めてきました。本尊の十一面観音は子授け、安産、航海安全の祈願所として広く信仰を集めてきました。
雪景色をみながら
厳島(宮島)
宮島は周囲30km、全島花崗岩で島の最高峰彌山は530m。彌山山頂を含む地域は原始林として天然記念物に指定されている。いつくしまの呼び名は神をいつきまつる島に由来古くは島そのものが神として崇拝された。
客神社本殿(まろうどじんじゃ本殿)入り口
鬼界島に流された平康頼が母恋しさに千本の卒塔婆に二首の和歌を書いて海にながした。そのうちの一本が池の中の石に流れ着いたと言われています。
反り橋(そりばし)
天皇が御派遣になる勅使がご参拝の際にお渡りになったと伝えられることから別名、勅使橋とも言われる。
後白河法皇後行幸松
後白河法皇が参詣された折御手植えされた松の遺木。
虹もかかっていました
大鳥居は修理中です
鏡の池
清水が湧き出ており潮が引くと手鏡のように見える。
康頼燈籠
鬼界ヶ島の配流先から許され帰京した平康頼が神思を感謝して奉納した燈籠と伝えられています。
能舞台
五重塔
原爆死没者慰霊碑
原爆の子の像
平和の灯
動員学徒慰霊塔
祈りの泉
嵐の中の母子像